紅音〈あかね〉の部屋のスケールに、早苗〈さなえ〉は驚いた。
私の部屋がいくつ分? 二つ、いや三つ? 大体自室にグランドピアノって、どこのお嬢様? あ、いや、お嬢様か。 自分の中で突っ込みを入れながら、紅音に促されてクッションに座った。「でも驚きました。早苗さんと私が、昔会ってたなんて」
「私も。でも柚希〈ゆずき〉から紅音さんの話を聞いた時、なんだかあの時のことを昨日のことみたいに思い出しちゃって。懐かしいよね」
「はい。私、子供の頃はよく診療所で遊んでいたんです。小さかった私にとって、あそこは不思議なものがいっぱいありましたから」
「分かる分かる。病院においてあるものって、なんだか魔法の道具みたいだもんね」
「そう、そうなんです。だからよく探検してたんです。でもお父様から、患者さんが来ている時は絶対に入っちゃいけないって言われてて」
「そう言えばあの時も、そんな風に言われてたような」
「自分でも不思議なんですけど、あの時なぜか私、中に入ってしまったんです。助けて、助けてって呼ばれた様な気がして」
「いやー面目ない。私ってば本当、注射が苦手で。でもあの時、紅音さんに頭を撫でられて私、不思議と気持ちが落ち着いたんだ。我慢しよう、そう思えたんだ」
「ふふふっ。あの時の早苗さんの顔、今でも覚えてますよ」
「それは忘れて」
「ふふっ」
「あははっ。それで紅音さん、体の具合ってどうなの?」
「はい、おかげさまで最近はずっと調子がいいんです。柚希さんと会えなかったこの二週間は、ちょっと寂しかったですけど」
「え……」
柚希は大怪我をしたあの日、紅音に助けられたと言っていた。それなのに紅音は、二週間会ってないと言っている。
不思議に思った早苗だったが、その時、先ほどキッチンで晴美〈はるみ〉が言っていた言葉を思い出した。「お嬢様は、薬の副作用で記憶が混濁される時があります。そう言った時には、出来ればそのまま否定せず、話を
「ごめんなさい早苗〈さなえ〉さん。やっぱり私、もうお二人と会わない方が」「何言ってるのよ、おバカ」 早苗がそう言って、紅音〈あかね〉の額を軽く小突いた。「私たち二人共、あのバカのことが好きなんだよ? と言うことは私たち、これ以上にないぐらい気が合うってことじゃない」「そんな、柚希〈ゆずき〉さんのことをバカって」「バカよバカ。こんないい女二人に想われてるのに、それに気付いてないんだから。そんなやつ、バカで十分だよ」「ふふっ……早苗さん、バカって言いすぎ……」「あははっ。でもそう思わない? 私たち、いい友達になれると思うよ。何より今、こんな恥ずかしい、誰にも言えない気持ちを告白しあったんだよ? いわば秘密の共有じゃない」「秘密の……共有……」「正直に言うけど私、柚希が紅音さんのことを話すたびに、嫌な気持になってた。今日ここに来る時も、変な子だったら引き離してやろう、そう思ってた。 でもね、紅音さん。私は柚希に惚れてるけど、あなたのことも好きになっちゃったの。紅音さん、私も友達にしてくれないかな」 その言葉に、今度は紅音が早苗を抱きしめた。「……私、女の子の友達がずっと欲しかったんです。でも私は人と違うから、望んではいけないんだと諦めてました。だから……嬉しいです……私も早苗さんと、お友達になりたいです」 紅音の頭を、早苗が優しく撫でる。「じゃああらためて。紅音さん、友達になってくれる?」「はい。早苗さん、お友達になってください」「契約成立!」 二人が抱きあう。「でも紅音さん、友情と恋愛は別だからね。今日から私たち、友達であり恋敵でもあるんだから。私、負けないからね」「私は……お二人の間に後から割り込んでしまって&helli
紅音〈あかね〉の部屋のスケールに、早苗〈さなえ〉は驚いた。 私の部屋がいくつ分? 二つ、いや三つ? 大体自室にグランドピアノって、どこのお嬢様? あ、いや、お嬢様か。 自分の中で突っ込みを入れながら、紅音に促されてクッションに座った。「でも驚きました。早苗さんと私が、昔会ってたなんて」「私も。でも柚希〈ゆずき〉から紅音さんの話を聞いた時、なんだかあの時のことを昨日のことみたいに思い出しちゃって。懐かしいよね」「はい。私、子供の頃はよく診療所で遊んでいたんです。小さかった私にとって、あそこは不思議なものがいっぱいありましたから」「分かる分かる。病院においてあるものって、なんだか魔法の道具みたいだもんね」「そう、そうなんです。だからよく探検してたんです。でもお父様から、患者さんが来ている時は絶対に入っちゃいけないって言われてて」「そう言えばあの時も、そんな風に言われてたような」「自分でも不思議なんですけど、あの時なぜか私、中に入ってしまったんです。助けて、助けてって呼ばれた様な気がして」「いやー面目ない。私ってば本当、注射が苦手で。でもあの時、紅音さんに頭を撫でられて私、不思議と気持ちが落ち着いたんだ。我慢しよう、そう思えたんだ」「ふふふっ。あの時の早苗さんの顔、今でも覚えてますよ」「それは忘れて」「ふふっ」「あははっ。それで紅音さん、体の具合ってどうなの?」「はい、おかげさまで最近はずっと調子がいいんです。柚希さんと会えなかったこの二週間は、ちょっと寂しかったですけど」「え……」 柚希は大怪我をしたあの日、紅音に助けられたと言っていた。それなのに紅音は、二週間会ってないと言っている。 不思議に思った早苗だったが、その時、先ほどキッチンで晴美〈はるみ〉が言っていた言葉を思い出した。「お嬢様は、薬の副作用で記憶が混濁される時があります。そう言った時には、出来ればそのまま否定せず、話を
こんな賑やかな夕食は初めてだ。そう思い、明雄〈あきお〉が笑みを浮かべた。 いつもは紅音〈あかね〉と晴美〈はるみ〉、三人の食卓で、晴美が一人で場を明るくしてくれていた。 しかし今夜、紅音の為に友人が二人も来てくれた。 紅音が嬉しそうに笑い、そして自分からも話題を投げかけている。 こんなに喜ばしいことはなかった。 こんな日が来るとは、夢にも思っていなかった。「そうだ紅音さん、これ」 食後の紅茶を注がれた後で、早苗〈さなえ〉が鞄からある物を取り出した。 それは早苗が昔、紅音からもらった鯨のぬいぐるみだった。 紅音の話を聞いたあの日、早苗は押入れからダンボールを引っ張り出し、このぬいぐるみを見つけたのだった。「これは……ルーシーです! お父様、ルーシーですよ!」 紅音がぬいぐるみを手に、嬉しそうに明雄に見せる。「でも、どうして早苗さんがルーシーを? これは昔、お父様の病院で遊んでいた時、注射が嫌で泣いている女の子がいて……私、その子にこれを」「その節はお世話になりました」 早苗がそう言って微笑んだ。 紅音は早苗の顔をまじまじと見つめ、そして両手を口元に当てた。「あの時の女の子……早苗さんだったんですか」「うん。私たち、随分昔に会ってたんだよ」 紅音は瞳を潤ませ、そして早苗に抱きついた。「早苗さん……そんな昔に私、早苗さんに会っていたなんて……ルーシーのこと、大切にしてくれていただなんて……」「あ、あはははははっ。ぬいぐるみはいつの間にか、押入れで眠ってたんだけどね」「早苗ちゃん。そこは『はい』って言っておけばいいんだよ」「あ、そうかそうか。あははははっ」「早苗さん、私……今日はなんていい日なんでしょう&helli
キッチンで早苗〈さなえ〉は、晴美〈はるみ〉からの試練に立ち向かっていた。 包丁さばきひとつを取っても、自分ではそれなりのものだと自負していた。 しかし晴美の華麗なる包丁さばきは、早苗の自信を根底から揺るがしていた。 味付けもそうだった。 試しにソースを作るよう言われ、全く同じ素材で作ったにも関わらず、晴美のそれは別次元の物だった。「自信喪失……」 うなだれる早苗に、晴美が笑顔を向ける。「早苗さんも、高校生とは思えぬ実力をお持ちですよ」「その慰めが、更に私を追い込んでいきます……」「むふふふっ。こんなことで落ち込んでいたら、柚希〈ゆずき〉さんの胃袋を満足させられませんよ」「なっ……ちょ、ちょっと晴美さん、それってどういう」「言葉通りでございますよ。柚希さんへの熱い視線、まさか気付かれていないとでも?」「ええええっ! 私、そんなに態度に出てます?」「ええ、それはもうしっかりと。柚希さんは全く気付かれていないご様子ですが」「はあっ……私ってば、最近空回りと自爆ばっかって感じだな」「よきかなよきかな、いい青春をお過ごしのようですね。はい、ではこれをそちらの皿に盛り付けて頂けますか」「はい……」 早苗が小さくため息をつく。 その様子に笑みを漏らしながら、晴美が言った。「早苗さん。あなたはとても純粋なお心を持たれてます。それは料理にも現れてました。先ほど早苗さんが、私に完敗と言われたソース。 確かに早苗さんの技術、荒削りで未熟なところもあります。ですが私はあの時、驚きました。この素材から、こんな温かい味覚を生み出せるのかと。それは早苗さん、あなたが料理を作る時、ご自身のプライドや腕試しだけでなく、その先にこれを食べてくれる方々の笑顔が見えているからだと思いました」「食べる人の笑顔&helli
「柚希〈ゆずき〉さん。私、とっても寂しかったんです」 柚希にもたれかかり、目を閉じ安堵の表情を浮かべ、紅音〈あかね〉が囁く。「僕もです、紅音さん」「私、毎日カレンダーばかり見てました。あと何日、あと何日で柚希さんに会える。そればかりを思って、この二週間過ごしてました」 柚希の中に、紅音が発する言葉への違和感が生まれた。「でも、柚希さんは試験の為、お勉強を頑張っている。そう思って私、我慢しました。 柚希さん。実は私も家で、お勉強してたんですよ。今、柚希さんと同じ時間に、私もお勉強をしている。そう思ったら、少しだけ元気になれたんです」「ごめんね。寂しい思いをさせちゃって」「いいえ、これは私の我儘なんです。この二週間、色々考えました。私は今まで、いつも一人でした。でも、こんな私にも、子供の頃は一緒に遊んでくれるお友達がいたんです。 人と一緒に過ごすのは苦手ですが、一人で遊ぶのも嫌でした。だから子供の頃はよく、近所のお友達の仲間に入れてもらおうとしました。最初はみんな、私を仲間にしてくれました。でもいつも、知らない内にみんな私から遠ざかっていって…… 今思えば、私は我儘だったんだと思います。受け入れてもらえたことが嬉しくて、それまでみんなで作ってきたルールも雰囲気も、私は壊していたんだと思います。 柚希さんは、私に初めて友達だと言ってくれた方でした。あの時のこと、今でもはっきりと覚えています。本当に、本当に嬉しかったから……でも私は相変わらずで、我儘ばっかり言って、いつも柚希さんを困らせています」「そんなこと」「それでも柚希さんは、こんな私に愛想をつかすことなく友達でいてくれて……だから私、思ったんです。これからは私、柚希さんの優しさに応えられる人間になろうって」「紅音さんはこれまでも、そしてこれからもずっと、僕の大切な友達です。それに僕、紅音さんのことをそんな風に思ったことはありません。安心してください。僕はどこにも行きません」「柚希さ
リビングで三人が、柚希〈ゆずき〉を挟んで座っていた。 柚希のその、何とも言えない微妙な表情は、晴美〈はるみ〉にとってかなりのご馳走だった。「柚希さん。両手に花とは、正にこのことですね。むふふふっ」「ちょ……両手に花って、そんな」「あら失礼。修羅場の間違いでしたか」「晴美さんっ」「むふふふっ。柚希さんは本当、いじりがいのあるお方ですね」「……おいしい! これ、晴美さんが淹れたんですか?」 紅茶をひと口飲んだ早苗〈さなえ〉が、驚きの表情を浮かべた。「お気に召されて何よりです」「晴美さんは家事の天才なんです。お料理の腕もすごいんですよ」「お嬢様、そんなにハードルを上げないでくださいませ。お嬢様にそんな風に言われたら、今夜の夕食、気合を入れずにはいられなくなります」「夕食、晴美さんが作るんですか」「はい。私たちの食事は、いつも晴美さんが作ってくださってるんです。早苗さんも是非、楽しみにしていてくださいね」「晴美さんの料理……こんなお屋敷でいつも作ってる料理……気になる、うん、気になる」 早苗の中の、料理研究部部長としての血が騒ぐ。 今この場からいなくなるということは、柚希と紅音〈あかね〉を残していくということだ。 それは今日、ここに来た本来の目的から大きく外れることになる。 しかし早苗の中で、例えそうであっても、晴美の料理の腕を見極めたいといった思いが強くなっていた。 紅茶をひと口飲んだだけで、この人が只者でないことは分かった。 ならば悩んでいる時ではない。 私が今成すべきこと。それは晴美と共に、キッチンに立つことだ。「は、晴美さん」「はい?」「よければその、私もキッチンに立たせてもらえませんか」「キッチンに……でございますか」